あのひと、私が「分母の数」のことを「母数」と言ったら、どんな顔するだろう?

★★ 2016/08/17 19時頃 追加: お詫び ★★
 taggaさんの日記(http://srad.jp/~tagga/journal/605281/ )に、本ブログ記事の事実誤認や不備が指摘されています。全体的に私の考え方や調べ方が幼稚なのですが、特に、事実誤認が酷いところに取り消し線を入れました。

 本記事において

「denominator"の訳語として英和辞書に「母数」が登場することはブログで書いていた人がいました」 

と述べていますが、これはtaggaさんのメモのことです(それらへのリンクは、先ほどのtaggaさんの日記(http://srad.jp/~tagga/journal/605281/ )に記載されています)。ただし、そこに書かれている内容を、私は、ほとんど忘れていて、かつ、歪めて記憶していました。引用しなかったことも含め、申し訳ございませんでした。

★★ 2016/08/17 19時頃 追加分おわり ★★

 

★★ 2020/07/16 20時頃:修正 ★★

引用部分における「媒介變又はその函を[原文ママ]母集團の特性を」の「[原文ママ]」を削除.当時,私は意味がわからなかったのだが,母数を関数で変換したものも母数である,との意味だろう.

★★ 2020/07/16 20時頃:修正おわり ★★

  

 

統計学における「母数」
 「母数」は、日本の統計学業界では、parameterの訳語として、「母集団の特性を表す定数」や「累積分布関数や密度関数の形状を決める定数」という意味で使われています(ただし、ベイズ統計学では parameterを定数ではなくて確率変数とみなします)。

 日本の統計学業界において parameterが「母数」と訳されるようになった時期は、Fisher-Neyman流の推測統計学が輸入されたときでしょう。1930年後半~1950年前半に、佐藤良一郎・増山元三郎・北川敏男などによって、推測統計学に関する多くの統計用語の訳語が決められていった、と私は予想しています。

 「母数」という訳語が定着する前の日本の統計学業界では、parameterは以下のように呼ばれていました。

  • 佐藤(1937, p.5):「Parameters(媒介變數)」
  • 北川(1941, p.78),古屋(1942):「パラメーター」
  • 北川(1942, pp.148-149):「parameters」

 このあたりでは、まだ「母数」という訳語が統計学業界で誕生・普及していなかったのでしょう。なお、佐藤(1937)では、「Population(母集團トデモ譯サウ)」と述べられていますが、これが「母集団」の初出だろうと私は思っています。

 増山(1948, p.13)で、「母集團の特性を表す常數 ― 母數(Parameter)」と書かれています。また、増山(1943, p.95)には「母集團常數」という言葉が登場します。

 1952年に出版された統計科學研究會編『新編 統計數値表 I』のp. 7では、以下のような記述があります

「分布函に含まれる媒介變又はその函[原文ママ]母集團の特性を表す常數という意味で,母集團常數又は母數という.」(統計科學研究會編 1952, p.7) 

 統計科學研究會編(1952, 諸言)や北川ら(1982, pp.41-42)によると、この説明は増山元三郎と北川敏男によって書かれています。この説明を素直に読めば、「母数」という訳語には、「母集団の特性を表す定数」という意味と、「累積分布関数の形状を決める定数」という意味の、ふたつの意味が込められている、と考えてよいでしょう。ふたつ目の意味(「関数の形状を決める定数」)については、後述します。

 国立国会図書館デジタルコレクションで「母数」で検索すると、増山(1948)よりも古い文献として、近藤(1944)があります。この近藤(1944)が、現在、私が調べた限りでの、統計学での「母数」の初出です。近藤(1944)で「母数」が登場することは、Twitter上で2012年に指摘されています(tigayam2, 2012)。

 1954年『文部省 学術用語集 数学編』の統計学分野において、parameterの訳語は「母数」とされています。この時点(1954年)において、他の候補(「母集団常数」や「媒介変数」)を押しのけて、統計学業界で「母数」が parameterの正統な訳語になったと言えるでしょう。

 なお、学術用語集に載っていても定訳にならなかった統計用語もあります。たとえば「尤度」には、学術用語集では別の訳語(「もっともらしさ,公算,優度,確度」)が割り振られています。これは、「尤」という漢字が常用漢字ではなかったためでしょう。また、現在においても、parameterのことを「母数」ではなく「パラメーター」と呼んでいる人もいます。

 

■数学における「母数」①
 統計学以外の数学分野でも、parameterは登場します。

  \displaystyle x- \displaystyle y座標の軌跡を調べる時に、時間 \displaystyle tを導入して、 \displaystyle x(t), y(t)と表したときの  \displaystyle tは、parameterと呼ばれています。このparameterは「媒介変数」と呼ばれていました(現在においても、「媒介変数」と呼ばれることが多いと思います)。

 数学では、もうひとつの用法があります。 \displaystyle f(x,y,a)などの関数において、 \displaystyle aを補助的な定数、 \displaystyle x, yを主たる変数とみなしたときに、この \displaystyle aをparameterと呼ぶことがあります。このparameterも「母数」と訳されることがあったようです。

 竹内(1922, p.282)には、以下のような記述があります。

 「曲線ノ方程式中ニ文字ニテ表サレタル常數ヲ含ムトキハ一般ニ其常數ノ數値ニヨリテ其曲線ノ形,位置等ハ種種ニ變ルベシ,カクシテ生ズル一群ノ曲線ヲ總稱シテ曲線群トイヒ,其文字常數ヲ母數イフ.」(竹内 1922, p.282)

 山崎(1936, p.430)には、以下のような記述があります。

 \displaystyle \lambdaヲぱらめーたートスル曲線群
             \displaystyle f(x,y,\lambda) = 0
ガ與ヘラレタ時,限リナク相隣レル曲線の交點ノ軌跡ヲバ,此曲線群の包絡線トイヒ,λヲ母數又ハトイフ。」(山崎 1936, p.430) 

  統計学の「母数」が普及する前に、曲線群のparameterに相当するものが「母数」と訳されていたと考えていいと思います。

 統計学の「母数」は、「確率密度関数や累積分布関数の形状を決める定数」でもあります。よって、「母集団の特性を決める定数」という意味ではなく、こちらの意味で「母数」と呼んでも違和感は生じません。前述したように、(増山元三郎や北川敏男は)「母数」にふたつの意味を含ませていたのでしょう。

 

■数学における「母数」②
 さらに話はややこしいです。「母数」は、「分母の数」という意味で使われることもあります。この用法の歴史はさらに古いです。1885年の『大全英和辞書:訂訳』における"denominator"の欄に、「名ヲ付ル人。母數(數學)」と記載されています。denominatorの訳語としての「母数」のほうが、統計学や曲線群の「母数」よりも、歴史は古いようです。

★"denominator"の訳語として英和辞書に「母数」が登場することはブログで書いていた人がいました(つまり、既出の情報)。しかし、2016/8/15現在、「denominator 母数」で検索してもヒットしません。引用しないで申し訳ございません。[2016/8/17 19時頃 追加: 本記事の先頭に書いてある「お詫び」をご覧ください]

 現在では、"denominator"は「分母」と訳すのが多数派でしょうし、大辞林などの日本語辞書にも、「母数」の欄に「分母の数」という意味は記載されていません。[2016/8/17 19時頃 削除]


■数学における「母数」③
 さらに、さらに、話はややこしいです。modular function(モジュラー関数)を、「母数関数」もしくは「母数函数」と訳していたこともあるようなのです。どんなに遅くても、前述の1954年『文部省 学術用語集 数学編』の数学分野におけるmodular functionの欄には、「母数関数 [母数函数]」と書かれています。このmodular functionを私はまったく理解していないので、説明を省略します。すみません。

 

■結び
 「母数」という言葉は漢字2文字ですので、言葉が重複してしまうことはしょうがないでしょう。「母集団の特性を表す定数」、「関数の形状を決める定数」、「分母の数」、「modular」、「母集団に属するものの個数」、...などなど、どれも漢字2文字で表わしたら、「母数」になってしまうでしょう。

 現在の国語辞典には、「母数=分母の数」という意味は記載されていません。しかし、[2016/8/17 19時頃 削除]「母数=分母の数」という用法のほうが、どうやら歴史的に古いようです。当初から誤訳していたという可能性もあるかもしれませんが、どうしてdenominatorを「母数」と訳したか、その真相は私には分かりません。

 なお、Twitterで「母数」で検索してざっと目視で調べた限り、「分母の数」という意味での「母数」のほうが、統計学での「母数」よりも、使用頻度が多いです(2016年8月15日現在)。

 

■参考資料(年代順)

1885年 箱田保顕 纂訳『大全英和辞書:訂訳』誠之堂・日報社
1922年 竹内端三 『高等微分学』裳華房
1936年 山崎栄作 『微分学通論』 内田老鶴圃
1937年 佐藤良一郎「數理統計學ノ展望」大塚數學會誌, 6(2), pp.1-15
1941年 北川敏男「小標本の理論(Ⅰ) : 正規型分布に關する統計假説檢定法, I」統計數理研究, 1(1), pp.66-81
1942年 古屋茂「Estimationの問題について」統計數理研究, 1(2), pp.12-32
1942年 北川敏男「適合度檢査法(Test of Goodness of Fit)と \displaystyle \chi^2分布」統計數理研究, 1(2), pp.33-77

1943年 統計科學研究會編『統計數値表 I』河出書房
1943年 増山元三郎『少數例の纒め方と實驗計畫の立て方 : 特に臨床醫學に携はる人達の為に』河出書房
1944年 近藤忠雄『計数の統計学岩波書店
1948年 増山元三郎「有限母集團からの抽出法」統計數理研究, 2(1), pp.12-23,

1952年 統計科學研究會編『新編 統計數値表 I』河出書房

1954年 文部省学術奨励審議会学術用語分科審議会『文部省 学術用語集 数学編』大日本図書

 

■参考文献

tigayam2(2012)

2012年2月14日におけるTwitterの投稿

[最終アクセス日] 2016年8月15日

 

北川敏男,丘本正,西平重喜(1982)

日本における統計学の発展 第47巻 (話し手:北川敏男 聞き手:丘本正)
昭和55,56,57年度文部省科学研究費総合(A)研究代表者西平重喜による速記録
統計数理研究所学術研究リポジトリRISM