小野裕亮・大隅昇 (2021年12月13日)
はじめに
翻訳書『多重対応分析』(オーム社)での「雲」という訳語について,Twitterにおいて相澤真一先生から以下のようなコメントをいただきました.
対応分析のcloudの訳語を大隅昇先生らの共訳書『多重対応分析』(2021)では「雲」と訳されているが、『文化・階級・卓越化』では長い議論の末「クラウド」としている(雲とするのはまさにもやったのである)。大隅先生ほどの大御所が自信をもって「雲」と訳したのは今後の定訳に向けて意義は大きい。
— 相澤 真一 (Shinichi Aizawa) (@isaactruth) December 3, 2021
このブログ記事では,”cloud”に対する訳語を本翻訳書で「雲」としたことに対して、簡単に説明いたします.
本書では,多重対応分析を幾何学的な観点から解釈しています.その枠組みのなかで,”nuage”(cloud)は,<ユークリッド空間上に散らばっている,重み(質量)をもつ点の集合>を指します.この意味を「雲」以外の短い語句で的確に表記することには無理があると考え,「雲」と訳しました.
なお,本翻訳書では,短い注なのですが,同訳書p. 17における訳注7で、日本語訳を「雲」にすると断っています.また,pp.178-179の用語集の項目「点雲」でも補足説明をしています.
幾何学的データ解析における“cloud”の意味
対応分析における”cloud”の定義は,たとえば、Benzecri, J. P. (1992) Correspondence Analysis Handbook, Marcel Dekker, p.17の2.1.3および2.1.4に次のように記されています.2.1.3および2.1.4ともに対応分析に限定した説明であり,2.1.3は行の雲を,2.1.4は列の雲を説明しています.
2.1.3 The cloud
... the set of the profiles of the various rows , each assigned the mass of the row which it represents, constitutes the cloud which is written:
2.1.4 The cloud
...: all the pairs (profile of column, mass of this column) thus formed constitute the cloud
ここで,は行 の行プロファイル,は行 の質量(重み)です.また,は列 の行プロファイル,は列の質量(重み)です.
また,ユークリッド空間上の雲についてですが,Benzécri, J.P. and Benzécri, F. (1985) Introduction à la classification ascendante hiérarchique d’après un exemple de données économiques. Journal de la société statistique de Paris, 126(1). 14-34のp.28におけるHuyghensの定理に関する説明において次のような簡単な断り書きがあります.
Théorème de Huyghens : soit c un ensemble de points munis de masses dans un espace euclidien (i.e.c est un nuage);
また、Benzecri, J. P. (1982) Historie et Préhistorie de l'Analyse des Données. Dunodのp.143には、以下のような簡単な記述があります.
“nuage”:ou ensemble de points munis de masses dans un espace euclidien.
<訳> 「雲」:またはユークリッド空間内の質量を持つ点の集合
「雲」と訳した理由
このように“nuage”(cloud)には,<空間に散らばった(重みをもった)点>や<(重みをもった)点の集合>という意味があります.「雲」以外の短い語句で的確に表記することには無理があると考えました.そこで,本翻訳書では,別の語句に置き換えることをせず,”cloud”に対して最も使われている日本語訳である「雲」を採用しました.
また,本翻訳書の第2章は,章名は“The Geometry of a Cloud of Points”です.この英語を「雲の幾何学」と訳しました.この第2章は,著者らが「雲」の概念を読者に正確に伝えるために意図的に工夫して書かれていると考えています.そして,この第2章で説明されている「雲」をもとに, 多重対応分析を幾何学的に解釈しています.「雲」は,幾何学的データ解析において非常に重要な概念だと考えています.
「雲」以外に考えられる訳語
”cloud”の訳語としては,いくつかの別の候補もありました.
第1に,”cloud”は,「大群」と訳す場合もあります.例えば,”a cloud of bees”を日本語に訳す場合には,「蜂の雲」とは訳さず,「蜂の大群」ぐらいに訳すでしょう.Le Roux and Rouanet (2010) Geometric Data Analysis: From Correspondence Analysis to Structured Data Analysis, Kluwer Academic Publishersのp.75に次のような喩えが記載されています.
For instance, the impacts of bullets on a target, or the positions of the bees in a swarm define Euclidean clouds.
<訳>たとえば,的(まと)に対する銃痕や,群れにおけるミツバチの位置は,ユークリッド雲を構成する.
第2に,以下のWikipedia(2021年12月8日現在)では,”point cloud”に対する日本語訳として,「点群(てんぐん)やポイントクラウド(英: point cloud)」となっています.
第3に,フランス語の”nuage de points”は,「散布図」を指すこともあります.たとえば,フランス語版の統計ソフトウェア(JMPフランス語版)では,”nuage de points”が「散布図」を指している個所もあります.ほかにも,以下のURLで公開されている統計用語データーベース(日本統計学会 統計教育委員会(翻訳),末永勝征・上村尚史・竹内光悦(制作・管理))では,日本語の「散布図」に対するフランス語訳の1つとして”nuage de points”を挙げています.
第4に,”cloud”を片仮名で「クラウド」と訳す場合もあります.たとえば『文化・階級・卓越化』で訳しているように,「クラウド」と訳すこともあります.また,最近はコンピュータ関連で,「クラウドコンピューティング」や「クラウドサービス」といった用語があります.
「群」もしくは「点群」と訳さなかった理由
“cloud”を「群」もしくは「点群」と訳さなかった理由は,”group”の日本語訳である「群」と混乱するのを避けるためです.日本語の「群」は分散分析などで (男性・女性などの)groupを指すのに使われており,「群間分散」や「群内分散」などと「群」という用語が使われています(これらの元の英語は,"between variance”や”within variance”なので,直訳すると「間分散」と「内分散」です).また,「群」とだけ表記すると,数学分野の群論における「群」(group)をイメージすることも危惧しました.
「集合」もしくは「点集合」と訳さなかった理由
“cloud”を「集合」もしくは「点集合」と訳さなかった理由は,数学用語の”set”に対する日本語訳である「集合」と混乱するのを避けるためです.同書には,集合を意味する”set”も登場するため,”cloud”には別の訳を割りあてたほうがよいと考えました.
「散布図」と訳さなかった理由
少なくとも同書では,“cloud”もしくは”cloud of points”を「散布図」と訳すことにはためらいがありました.なぜなら,同書では,<重み(質量)をもつ点の集合>を”cloud”と呼んでおり,散布図はその”cloud”の分布を視覚的に表現する方法の1つにすぎないからです.
「クラウド」と訳さなかった理由
「クラウド」と訳さなかった理由は、なるべく片仮名表記を避けるためです.片仮名表記が増えると,可読性が悪くなると考えています.また,同書において”cloud”は頻出用語であり,かつ,”between cloud”, “projected cloud”, “subcloud”など,日本語訳では複合語としたい用語も沢山あったので,「クラウド」と片仮名にするのを避けました.
最後に
なお,本書の原著者らが主張する幾何学的データ解析や構造化データ解析の考え方をなるべく正しく伝えるために,「雲」だけではなく,いくつかの造語を用いています.